日々のニュースについて考えたことを色々と. 少し頭を使う必要があるかもです
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最近、アマゾンから郵便物が届きまして、中身は頼んでおいたCDであります。
海外からの輸入版なので、発送は、早くても6月28日ぐらいになるといわれた品物でしたから、ビックリです笑
早すぎだろ、と。
まぁ遅いことを覚悟させておいて、実はスグに届く、というのは妙に嬉しいものであります。
憎い真似をしてくれます、アマゾン。
CDは、ジャズのCDなのですが、スムースジャズというジャンルがありまして、それです。
グループは「Fouplay」、今回は彼らのデビューアルバム、「Fourplay」を購入しました。
ジャズに興味がある人はもちろんですが、興味が無い人にもオススメできます。ちょうど、オシャレな喫茶店やカフェで流れているBGMのような感じですね。
まぁ、頭の片隅にでも。
今回は、すこし頑張って書きます。なぜならば、このテーマは、僕が哲学に興味をもつきっかけとなり、幼少の頃から今に至るまで、常に関わってきた疑問であるからです。
つまり、今だに答えなるものは存在しません。まさに哲学。
さて、幼少の頃、最も僕を強く捉えた疑問とは、
「自分とはなんだ。」
これであります。
深く考えようとすると、何か言いようの無い感覚(不安、恐れ、はたまた希望、興奮)に呑み込まれ、非常に印象的な経験であった。
世の中に、過去、現在に至るまで、数え切れない人数が存在したわけだが、ちょうど”今”、この時代に、「自分」という特別な存在が、どうして在るのか。
特別、というのはいうまでも無く、自分のみ知りえる感情、感覚を持ち、自分の意思で、触り、動き、そして、まるで世界を撮るカメラのように、全く独自の視点から世界を見ることができる。
人間がもし、何億年の月日をかけて、微生物からここまで進化し、ゆえにたんなる偶然(奇跡という名の偶然だが、)により誕生し、意味なく存在し続ける生命体だとしたならば、”自分”という特別な存在は、不思議でしょうがないのです。
なぜ、道を歩いているあの老人になれないのか、なぜ自分でいるのだろうか、と。
これを解決しうる、一つの可能性として、僕はとんでもないことを考えます。
つまり、自分が、「自分」という特別な存在でいるのは、世界に自分しか存在していないからだと。
周りにあるすべての環境は、自らを定義する材料にすぎず、したがってそれらは、実体として存在しない、というわけです。
今、周りの環境を、「自らを定義する材料」と呼びましたが、どういうことかというと、自分というのは「他人」によって定義されるものだ、と考えられるからです。
例えば、この世に自分しか無い、という状況を考えてみると、そもそも「自分」というものが定義できない。
また、自分の価値を決めるのは「他人」である、という説もあります。
いずれにせよ、他人は、地球は、過去は、そもそもこの世界は、自分が存在するためのエキストラにすぎない。
自分にとって都合よく設定された、仮想のものにすぎない。
ならば、この世は、自分が存在しないと存在できない。もっというと、世界を作るのは他ならぬ、自分自身である、と。
あほな、と考えたかたがほとんど(全員)であろうかと思いますが、一体誰が否定できるでしょうか。肯定は出来ないが否定もできない。
実は、こんなことを考える人間が自分だけじゃない、ということを最近知りました。
彼は上記の仮定をしたうえ、さらに、『ならば自分は死んでいる』という考えにも及んでいましたが。
僕は、それほど物事を否定的に捉えたくないので、逆に、「自分が世界を自由にできるのだ」と、肯定的にこの仮説を捉えたものです。
もちろん、本気で信じてるわけではありません。
けれど、哲学というのは答えがないわけですから、様々な仮説(あくまで仮説)をたてられるのです。
上記のような考え方を、”心底面白い”と感じる人は、まさに哲学が好きな人でしょう。
哲学の話をしだすと、時を忘れて語れるのでは、と思います。いいですね。
もっと話したい事がありますが、この辺で止めましょう笑
また、こんな際限ないテーマをやりたいですね。
海外からの輸入版なので、発送は、早くても6月28日ぐらいになるといわれた品物でしたから、ビックリです笑
早すぎだろ、と。
まぁ遅いことを覚悟させておいて、実はスグに届く、というのは妙に嬉しいものであります。
憎い真似をしてくれます、アマゾン。
CDは、ジャズのCDなのですが、スムースジャズというジャンルがありまして、それです。
グループは「Fouplay」、今回は彼らのデビューアルバム、「Fourplay」を購入しました。
ジャズに興味がある人はもちろんですが、興味が無い人にもオススメできます。ちょうど、オシャレな喫茶店やカフェで流れているBGMのような感じですね。
まぁ、頭の片隅にでも。
今回は、すこし頑張って書きます。なぜならば、このテーマは、僕が哲学に興味をもつきっかけとなり、幼少の頃から今に至るまで、常に関わってきた疑問であるからです。
つまり、今だに答えなるものは存在しません。まさに哲学。
さて、幼少の頃、最も僕を強く捉えた疑問とは、
「自分とはなんだ。」
これであります。
深く考えようとすると、何か言いようの無い感覚(不安、恐れ、はたまた希望、興奮)に呑み込まれ、非常に印象的な経験であった。
世の中に、過去、現在に至るまで、数え切れない人数が存在したわけだが、ちょうど”今”、この時代に、「自分」という特別な存在が、どうして在るのか。
特別、というのはいうまでも無く、自分のみ知りえる感情、感覚を持ち、自分の意思で、触り、動き、そして、まるで世界を撮るカメラのように、全く独自の視点から世界を見ることができる。
人間がもし、何億年の月日をかけて、微生物からここまで進化し、ゆえにたんなる偶然(奇跡という名の偶然だが、)により誕生し、意味なく存在し続ける生命体だとしたならば、”自分”という特別な存在は、不思議でしょうがないのです。
なぜ、道を歩いているあの老人になれないのか、なぜ自分でいるのだろうか、と。
これを解決しうる、一つの可能性として、僕はとんでもないことを考えます。
つまり、自分が、「自分」という特別な存在でいるのは、世界に自分しか存在していないからだと。
周りにあるすべての環境は、自らを定義する材料にすぎず、したがってそれらは、実体として存在しない、というわけです。
今、周りの環境を、「自らを定義する材料」と呼びましたが、どういうことかというと、自分というのは「他人」によって定義されるものだ、と考えられるからです。
例えば、この世に自分しか無い、という状況を考えてみると、そもそも「自分」というものが定義できない。
また、自分の価値を決めるのは「他人」である、という説もあります。
いずれにせよ、他人は、地球は、過去は、そもそもこの世界は、自分が存在するためのエキストラにすぎない。
自分にとって都合よく設定された、仮想のものにすぎない。
ならば、この世は、自分が存在しないと存在できない。もっというと、世界を作るのは他ならぬ、自分自身である、と。
あほな、と考えたかたがほとんど(全員)であろうかと思いますが、一体誰が否定できるでしょうか。肯定は出来ないが否定もできない。
実は、こんなことを考える人間が自分だけじゃない、ということを最近知りました。
彼は上記の仮定をしたうえ、さらに、『ならば自分は死んでいる』という考えにも及んでいましたが。
僕は、それほど物事を否定的に捉えたくないので、逆に、「自分が世界を自由にできるのだ」と、肯定的にこの仮説を捉えたものです。
もちろん、本気で信じてるわけではありません。
けれど、哲学というのは答えがないわけですから、様々な仮説(あくまで仮説)をたてられるのです。
上記のような考え方を、”心底面白い”と感じる人は、まさに哲学が好きな人でしょう。
哲学の話をしだすと、時を忘れて語れるのでは、と思います。いいですね。
もっと話したい事がありますが、この辺で止めましょう笑
また、こんな際限ないテーマをやりたいですね。
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無題
『この世は、自分が存在しないと存在しない』全く同感です。
以前、キルシェのブログで書けましたが『神は自分自身である』ということです。
この世に絶対はなくても自分自身は絶対であるのですネ。
ちなみに2008年9月1日の記事です。
以前、キルシェのブログで書けましたが『神は自分自身である』ということです。
この世に絶対はなくても自分自身は絶対であるのですネ。
ちなみに2008年9月1日の記事です。