日々のニュースについて考えたことを色々と. 少し頭を使う必要があるかもです
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最近暑い日々が続いていますね。
実家がある場所よりも、はるかに都会に下宿してますので、これから大丈夫か?という不安があります。
あまりクーラーは着けたくないのですけど(風のほうが気持ちがいい)、これは着けるしかないのかな、と。
ともかくも、水分補給だけしっかりして、熱中症等にならないよう、気をつけたいと思います。
さて、今回の内容は、自分としてはすごく面白いテーマですね。
”言葉”に関してです。
私の「ブログ」は、基本的に言葉だけで構築され、しかもコミュニケーションの場でありますから(読む人がいる)、言葉について考えることは必須なわけです。
ここにも書いたかもしれませんが、自分の思いや考えを、”言葉”だけで完全に表現することは、至難の業であります。
言葉を道具として使う場合、つまりは、言葉を、「意味を伝えるもの」とだけ認識する場合、言葉のもつ表現力は非常に脆弱です。
伝える内容が、例えば、「その新聞、取って」という風であれば、言葉のもつ表現力で十分足りるわけです。
しかしながら、自分の心を言葉で表現する場合、表現できるのは「氷山の一角」に過ぎない。つまり、我々の心のなかには、言葉によって定義できない感情や感覚が、それこそ海のようになって在るわけです。
ところが、言葉というのは大変に過大評価されてしまう傾向にあるようで、言葉によって定義されて初めてその物事が”存在する”と認識されることも少なくない。
僕は、このブログをやっていて思うのは、何とかして、その心の海の一部分でも伝えたいということであります。
つまり言葉で定義できないものを、言葉によって表現するんです。
出来るでしょうか。
”言葉”を上記のように定義した場合、不可能だと思われます。
では、どうするか。
相手の心の中にある、同じような”感情の海”を刺激する、もしくは(強烈に)呼び起こすもの、として言葉を認識した場合、上手くいくかもしれません。
分かりにくいかもしれないので、例をいくつか挙げてみましょう。
一つ目は「詩」であります。
「詩」を構成する「ことば」は、確かに私達が普段使うような平易なものですが、しかし、そのことばが紡ぎだし、訴えかける「内容」は、時に、こころに直接響くようなものであります。ことばの表現を超えた”何か”を感じとることができます。
それは何だ、言葉で表現してみろ、というと、それは出来ない相談なのであります。
そして、もう一つ、挙げたいのが「俳句」です。
俳句を詠む人は、あの十七文字に入れる「ことば」に、非常に拘るわけです。なんとかして、自らが感じた、声に出来ない感動を伝えようとするわけです。
したがって、出来上がった俳句のなかの一つの文字を、あるいはことばを、「その意味を崩さない、別のことば」で置き換えることは出来ないのです。これは「詩」についても同じ。
彼らは、ことばが持つ表面上の意味を伝えたいわけではないのです。
さて、私もこれを意識するわけなんですね。
つまり、ブログ上に”置く”言葉を丁寧に選ぶようにしているのです。
読んでいて分かる方もいるかとは思いますが、僕の書く文章の中には、少し日本語の文法とずれる言葉の使い方をしている部分もあれば、やたらと句読点を打ったり、二度出てくる言葉であっても、一方は漢字、もう一方はひらがな、という風に使い分けたりする部分があります。
これらはすべて意図したもの、であります。
つまり、その言葉のもつ”意味”だけでなく、”リズム”や”響き”を大切にしているわけなんですよ。
同じ逆接であっても、「しかし」と「ところが」、どちらを使うべきか迷うわけなんですね。
場合によっては、皆さんとの感性の違いで、読みずらい部分も当然出てくるだろうし、読む側の解釈によるところが大きい表現の仕方をしていますから、誤解も生まれるかもしれません。
”読む側の解釈の余地を許さない”文章は、たしかに説得力があって、安全な(誤解がうまれない)文章でしょう。
しかし、僕が望むのはそうではなくて、「こころ」を伝えることを第一に据えているわけでして、お互いの心の波長がぴったり合った時の、「ああ、そうなんだよ、この感覚なんだよ!」という感動を、出来るだけ多く生み出したいと考えているわけなんですね。
もちろん、”読む側の解釈の余地を許さない”文章も、時によっては必要で、軽視するべきものではありません。
かっこいいこと言っていますが、実際、感動を伝えられるかどうかは不明であります笑
まぁ、そういう文章がかけたら良いな、と。
このブログでは、試行錯誤のもと、出来るだけ良い記事が書けるようにしたいと、考えています。
それでは、また
実家がある場所よりも、はるかに都会に下宿してますので、これから大丈夫か?という不安があります。
あまりクーラーは着けたくないのですけど(風のほうが気持ちがいい)、これは着けるしかないのかな、と。
ともかくも、水分補給だけしっかりして、熱中症等にならないよう、気をつけたいと思います。
さて、今回の内容は、自分としてはすごく面白いテーマですね。
”言葉”に関してです。
私の「ブログ」は、基本的に言葉だけで構築され、しかもコミュニケーションの場でありますから(読む人がいる)、言葉について考えることは必須なわけです。
ここにも書いたかもしれませんが、自分の思いや考えを、”言葉”だけで完全に表現することは、至難の業であります。
言葉を道具として使う場合、つまりは、言葉を、「意味を伝えるもの」とだけ認識する場合、言葉のもつ表現力は非常に脆弱です。
伝える内容が、例えば、「その新聞、取って」という風であれば、言葉のもつ表現力で十分足りるわけです。
しかしながら、自分の心を言葉で表現する場合、表現できるのは「氷山の一角」に過ぎない。つまり、我々の心のなかには、言葉によって定義できない感情や感覚が、それこそ海のようになって在るわけです。
ところが、言葉というのは大変に過大評価されてしまう傾向にあるようで、言葉によって定義されて初めてその物事が”存在する”と認識されることも少なくない。
僕は、このブログをやっていて思うのは、何とかして、その心の海の一部分でも伝えたいということであります。
つまり言葉で定義できないものを、言葉によって表現するんです。
出来るでしょうか。
”言葉”を上記のように定義した場合、不可能だと思われます。
では、どうするか。
相手の心の中にある、同じような”感情の海”を刺激する、もしくは(強烈に)呼び起こすもの、として言葉を認識した場合、上手くいくかもしれません。
分かりにくいかもしれないので、例をいくつか挙げてみましょう。
一つ目は「詩」であります。
「詩」を構成する「ことば」は、確かに私達が普段使うような平易なものですが、しかし、そのことばが紡ぎだし、訴えかける「内容」は、時に、こころに直接響くようなものであります。ことばの表現を超えた”何か”を感じとることができます。
それは何だ、言葉で表現してみろ、というと、それは出来ない相談なのであります。
そして、もう一つ、挙げたいのが「俳句」です。
俳句を詠む人は、あの十七文字に入れる「ことば」に、非常に拘るわけです。なんとかして、自らが感じた、声に出来ない感動を伝えようとするわけです。
したがって、出来上がった俳句のなかの一つの文字を、あるいはことばを、「その意味を崩さない、別のことば」で置き換えることは出来ないのです。これは「詩」についても同じ。
彼らは、ことばが持つ表面上の意味を伝えたいわけではないのです。
さて、私もこれを意識するわけなんですね。
つまり、ブログ上に”置く”言葉を丁寧に選ぶようにしているのです。
読んでいて分かる方もいるかとは思いますが、僕の書く文章の中には、少し日本語の文法とずれる言葉の使い方をしている部分もあれば、やたらと句読点を打ったり、二度出てくる言葉であっても、一方は漢字、もう一方はひらがな、という風に使い分けたりする部分があります。
これらはすべて意図したもの、であります。
つまり、その言葉のもつ”意味”だけでなく、”リズム”や”響き”を大切にしているわけなんですよ。
同じ逆接であっても、「しかし」と「ところが」、どちらを使うべきか迷うわけなんですね。
場合によっては、皆さんとの感性の違いで、読みずらい部分も当然出てくるだろうし、読む側の解釈によるところが大きい表現の仕方をしていますから、誤解も生まれるかもしれません。
”読む側の解釈の余地を許さない”文章は、たしかに説得力があって、安全な(誤解がうまれない)文章でしょう。
しかし、僕が望むのはそうではなくて、「こころ」を伝えることを第一に据えているわけでして、お互いの心の波長がぴったり合った時の、「ああ、そうなんだよ、この感覚なんだよ!」という感動を、出来るだけ多く生み出したいと考えているわけなんですね。
もちろん、”読む側の解釈の余地を許さない”文章も、時によっては必要で、軽視するべきものではありません。
かっこいいこと言っていますが、実際、感動を伝えられるかどうかは不明であります笑
まぁ、そういう文章がかけたら良いな、と。
このブログでは、試行錯誤のもと、出来るだけ良い記事が書けるようにしたいと、考えています。
それでは、また
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