日々のニュースについて考えたことを色々と. 少し頭を使う必要があるかもです
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前回の記事が記事だったので、適度なフォローをいれなければなりませんね。
今日のテーマは「表現の自由」に関してです。
「表現の自由」の重要性については、キルシェさんが論じてくれましたので、僕は少し違った切り口でもって書いていきたいと思います。
ちなみに憲法用語はでてきません笑
世の中は、さまざまな”表現”であふれています。
テレビ(映像)、新聞(活字)、音楽(芸術)、、、
キルシェさんの言う通り、押し付けにならない限り、これらの表現に対して自由が与えられています。
さて、物事を論ずるのに一般論のみで押し進めていく人を、理想論者と言います。
”表現の自由だから”を掲げていれば上手く行く世の中ではないのが辛いところです。
どういうことか。
僕が思うに、社会における「表現の自由」は、その自由が失われていくことにこそ、意味があるような気がします。
変なことを言い出したと思われるかもしれませんが、注意してみるべきところは最初の、”社会における”の部分です。
この「表現の自由」が憲法によってうたわれているとこそがミソだと思うのです。
社会において、理想的な状態を前提とするのは全く間違っています。
どんなに嘆かわしくとも、人間は神や仏ではない、という事実と常に向き合わなければなりません。
”社会”という、無数の人間の思想が混じり合ったフィールドにおいては、表現の自由における”本来の意味”はまるで紙のように薄っぺらいものになってしまいます。
なぜなら、表現の自由そのものがあまりに曖昧であるためです。
表現方法についても曖昧、そもそも、思想という概念自体が手に負えないものでしょう。
例えば、「国旗を燃やすのは表現の自由?」
最近の話題で言えば、アカデミー賞に輝いた映画「The Cove」、あれはどうなの?
こうなると、もはや「表現の自由」はてんてこまいで、もっと具体的なものさしが「しょうがねぇなぁ」ってな具合で物事を整理してゆきます。
そのとき、表現の自由は当然(ある部分では)無視されてしまいます。
すなわち、社会においてより便利に使われるのは、後者の”具体的なものさし”ではないでしょうか。
そのものさしが、自由の面積をきめてゆく。
表現の自由は、失われる過程において、もっとも重要な仕事をするのです。
「社会において、あなたの思想はここまで認められますよ」ということを我々に教えてくれるのです。
ここですぐに分かることが一つあって、社会において人間は平等ではない、ということです。
人生なにごとも諦めが肝心。
我々の意見なんて、社会はほとんど相手にしてくれません、、、
今日のテーマは「表現の自由」に関してです。
「表現の自由」の重要性については、キルシェさんが論じてくれましたので、僕は少し違った切り口でもって書いていきたいと思います。
ちなみに憲法用語はでてきません笑
世の中は、さまざまな”表現”であふれています。
テレビ(映像)、新聞(活字)、音楽(芸術)、、、
キルシェさんの言う通り、押し付けにならない限り、これらの表現に対して自由が与えられています。
さて、物事を論ずるのに一般論のみで押し進めていく人を、理想論者と言います。
”表現の自由だから”を掲げていれば上手く行く世の中ではないのが辛いところです。
どういうことか。
僕が思うに、社会における「表現の自由」は、その自由が失われていくことにこそ、意味があるような気がします。
変なことを言い出したと思われるかもしれませんが、注意してみるべきところは最初の、”社会における”の部分です。
この「表現の自由」が憲法によってうたわれているとこそがミソだと思うのです。
社会において、理想的な状態を前提とするのは全く間違っています。
どんなに嘆かわしくとも、人間は神や仏ではない、という事実と常に向き合わなければなりません。
”社会”という、無数の人間の思想が混じり合ったフィールドにおいては、表現の自由における”本来の意味”はまるで紙のように薄っぺらいものになってしまいます。
なぜなら、表現の自由そのものがあまりに曖昧であるためです。
表現方法についても曖昧、そもそも、思想という概念自体が手に負えないものでしょう。
例えば、「国旗を燃やすのは表現の自由?」
最近の話題で言えば、アカデミー賞に輝いた映画「The Cove」、あれはどうなの?
こうなると、もはや「表現の自由」はてんてこまいで、もっと具体的なものさしが「しょうがねぇなぁ」ってな具合で物事を整理してゆきます。
そのとき、表現の自由は当然(ある部分では)無視されてしまいます。
すなわち、社会においてより便利に使われるのは、後者の”具体的なものさし”ではないでしょうか。
そのものさしが、自由の面積をきめてゆく。
表現の自由は、失われる過程において、もっとも重要な仕事をするのです。
「社会において、あなたの思想はここまで認められますよ」ということを我々に教えてくれるのです。
ここですぐに分かることが一つあって、社会において人間は平等ではない、ということです。
人生なにごとも諦めが肝心。
我々の意見なんて、社会はほとんど相手にしてくれません、、、
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無題
表現の自由は表現すること自体を保障しているので、相手がそれを聞き入れるかどうかは別問題です。
確かに、相手が表現活動を無視すると表現の自由を保障した意義が半減します。
しかし、それよりも表現の自由それ自体に対する制約が問題です。
そして、これこそが表現の自由が保障されていないというべきことです。
例えば、共産党員がマンションでビラ配りをしていると住居侵入罪で逮捕・起訴され、2年前に最高裁で有罪が確定したという事件がありました。
これは表現の自由そのものに対する制約でしょう。
相手は無視をしていません。
ただ表現活動そのものを攻撃してきたのです。
そもそも表現の自由そのものに対する制約は表現活動が相手に届きすらしません。
そうすると無視という問題も生じません。
さらに、諦めるというのはみずから表現活動を停止させるものであるため、表現の自由が問題になるどころか、相手が無視をするということすら言えなくなるのです。
この記事の内容は、表現の自由は相手が無視すると保障されなというふうにも読み取れます。
その意味で、論点が少しずれちゃったのかなと苦笑。
まーブログ上でのやりとりなので仕方がありませんが。
なお、キルシェは「国旗を燃やす」のは表現の自由の一環だと考えます。
人によっては表現の自由に値しない低俗な表現活動や危険な表現活動は表現の自由の枠外だという人もいます。
しかし、キルシェはすべての表現活動を表現の自由の枠内であるとした上で、個別に他人の権利を侵害する表現活動については制約される(裏を返せば侵害された他人の権利を保障するということになる)と考えます。
確かに、相手が表現活動を無視すると表現の自由を保障した意義が半減します。
しかし、それよりも表現の自由それ自体に対する制約が問題です。
そして、これこそが表現の自由が保障されていないというべきことです。
例えば、共産党員がマンションでビラ配りをしていると住居侵入罪で逮捕・起訴され、2年前に最高裁で有罪が確定したという事件がありました。
これは表現の自由そのものに対する制約でしょう。
相手は無視をしていません。
ただ表現活動そのものを攻撃してきたのです。
そもそも表現の自由そのものに対する制約は表現活動が相手に届きすらしません。
そうすると無視という問題も生じません。
さらに、諦めるというのはみずから表現活動を停止させるものであるため、表現の自由が問題になるどころか、相手が無視をするということすら言えなくなるのです。
この記事の内容は、表現の自由は相手が無視すると保障されなというふうにも読み取れます。
その意味で、論点が少しずれちゃったのかなと苦笑。
まーブログ上でのやりとりなので仕方がありませんが。
なお、キルシェは「国旗を燃やす」のは表現の自由の一環だと考えます。
人によっては表現の自由に値しない低俗な表現活動や危険な表現活動は表現の自由の枠外だという人もいます。
しかし、キルシェはすべての表現活動を表現の自由の枠内であるとした上で、個別に他人の権利を侵害する表現活動については制約される(裏を返せば侵害された他人の権利を保障するということになる)と考えます。