日々のニュースについて考えたことを色々と. 少し頭を使う必要があるかもです
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政界が大変騒がしいようですが、、、
なんか面白くないんですよね。批判やその他も、その事象について興味があるから、面白いからこそやれるわけです。
今日は、教育においての卵とニワトリについて少し考えてみました。
このテーマに関しては、自分の考察を他人のものともぶつけ、広げたりしたものです。
今回、卵、もしくはニワトリに当てはめるものは、「教育制度(政治)」と「親」です。
僕は最近思うようになったのは、人の成熟度についてなんです。
大人(と呼ばれている)も子供も、そう遠くない昔とは少し異なってきている気がするんですね。
始めこれを強く意識したのは、ちょうど、「モンスターペアレント」が話題になった頃です。
ここから、少し個人的な感覚になりますが、僕の幼少期、「大人」は”正しい”ものだと認識していました。
知識があって、なおかつ経験に基づく考察の上、強い意見を持つ人間というのは、怖い存在だと感じますから、そういう意味で大人は怖いというか畏怖を抱く対象だったんですね。
もちろん厳しいしつけ等、殴られたりの経験はございませんが、そんなのがなくても大人の言うことは”従うもの”との感覚があったわけです。
成長するにつれ、まず自分の価値観やぼんやりしていた概念を自分の意見として明確にすることを覚えます。
これはまだ、家で一人あそびをする頃でしょうか。
自分の感情を誰を気にするわけでもなく表現する、という段階ですね。
次に、その価値観は自分特有のものであることを知ります。
つまり、自分の世界は他人に通用しない、ということを知るわけです。
これは保育園、幼稚園において、まったくの他人(自分を理解する気はさらさらない)と触れ合うことによって、でしょう。
ちょうどこの頃から、「大人」という存在に気づき始めたような気がします。
ゆえに、もはやこの頃から、親や先生の言うことは「正しい」として認めていたということです。
その後、小学校にはいり、集団の中で上手く自分を活かす術、その他、「教えられること」をならいました。
中学では、勉強にしぼっていうと、まさに「学習し、理解する」ことに焦点を絞り、そのためには「自ら進んで調べる」ことの重要性に気がつく、というぐあい。
高校では、中学で得た知見を元に、「自分の目標への実現」へ突き進んだ記憶があります。
さてここで僕は、なるほど、と思ったのです。
なるほど、幼稚園は小学校へいくための、小学校は中学校にいくための、中学校は高校へいくための役割を担っているんだなぁ、と。
しかし、そこで違和感を感じたのです。
ならば、高校は、大学へいくための?或いは就職するための?
そうだったかなぁ、という疑問が生まれたわけです。
もちろんそうであるはずですが、僕は大学へいくための教育を受けた覚えが、無いとはいわないが、薄かった記憶がある。
もちろんこれは受験勉強のことをいっているわけではありません。
大学へ”入る”ための知識はイヤというほど教わったが、大学生に”なる”ための教養はあまり伝えてもらわなかったように感じます。
それくらいは自分で見つけろ、ということなのでしょうか。
僕は、学校が塾のようになってしまうのではないか、という危惧があります。特に進学校において、です。
目線をこんどは下へと移しましょう。
幼稚園にはいるための教養は何処で得るのでしょうか。
言うまでも無く、「家庭」であります。
ならば家庭でのしつけを怠った場合、それがその先ずっと響いてゆくことは、容易に理解できるでしょう。
僕は、モンスターペアレントといわれる人たちを挙げましたが、彼らが叫ぶ学校に対する要求は、「家庭」の段階で、彼ら自身が、子供に与えるべきものであることが多い。
学校としては、その段階はクリアしている前提であるわけです。
もちろんそう上手く、誰しもがタスクを処理してきていると考えるのは危険ではありますが。
さて、もう少しいうと、家庭での教養が十分でなかった子供も、いずれは成長し大人に、そして「親」になります。
その時、彼らのしつけはどういう風になるのでしょうか。
このことをある人(女性である)にぶつけてみたところ、その一因として、「女の台頭」を挙げました。彼女は、それを負にとっていたのです。
彼女は、女の台頭に伴い、社会で働く意思をもった女性が増えた。
そこまでは良いが、しかし、そのために、幼い子供を保育所に預ける女性が出始め、それが問題だと指摘したのです。
つまり、子供の一番かわいい時期を、他人に預けてしまうのは考えられない、残念なことだ、と。
僕が最初に挙げた、「家庭」での教育、その中にはもちろん「愛情」も含まれます。しかし、彼女が指摘するような状況下で、果たしてそれが十分に行われたといえるでしょうか。
しかし事実、女性が育児を放棄しないといけない状況を作り出したのは、今の政治ではないか、と彼女はつけくわえました。
つまりこれが、「卵とニワトリ」です。
「親」が悪いのか、「政治」が悪いのか、どちらが先なのか。
少し考えてみても面白い気がします。
なんだかんだいって政治の話にも絡んでしまいました笑
かなり色々な部分をそぎ落とし、言葉足らずの部分がありますが、言いたいことは大体言えました。
少し真面目な話でしたね、今回は。
なんか面白くないんですよね。批判やその他も、その事象について興味があるから、面白いからこそやれるわけです。
今日は、教育においての卵とニワトリについて少し考えてみました。
このテーマに関しては、自分の考察を他人のものともぶつけ、広げたりしたものです。
今回、卵、もしくはニワトリに当てはめるものは、「教育制度(政治)」と「親」です。
僕は最近思うようになったのは、人の成熟度についてなんです。
大人(と呼ばれている)も子供も、そう遠くない昔とは少し異なってきている気がするんですね。
始めこれを強く意識したのは、ちょうど、「モンスターペアレント」が話題になった頃です。
ここから、少し個人的な感覚になりますが、僕の幼少期、「大人」は”正しい”ものだと認識していました。
知識があって、なおかつ経験に基づく考察の上、強い意見を持つ人間というのは、怖い存在だと感じますから、そういう意味で大人は怖いというか畏怖を抱く対象だったんですね。
もちろん厳しいしつけ等、殴られたりの経験はございませんが、そんなのがなくても大人の言うことは”従うもの”との感覚があったわけです。
成長するにつれ、まず自分の価値観やぼんやりしていた概念を自分の意見として明確にすることを覚えます。
これはまだ、家で一人あそびをする頃でしょうか。
自分の感情を誰を気にするわけでもなく表現する、という段階ですね。
次に、その価値観は自分特有のものであることを知ります。
つまり、自分の世界は他人に通用しない、ということを知るわけです。
これは保育園、幼稚園において、まったくの他人(自分を理解する気はさらさらない)と触れ合うことによって、でしょう。
ちょうどこの頃から、「大人」という存在に気づき始めたような気がします。
ゆえに、もはやこの頃から、親や先生の言うことは「正しい」として認めていたということです。
その後、小学校にはいり、集団の中で上手く自分を活かす術、その他、「教えられること」をならいました。
中学では、勉強にしぼっていうと、まさに「学習し、理解する」ことに焦点を絞り、そのためには「自ら進んで調べる」ことの重要性に気がつく、というぐあい。
高校では、中学で得た知見を元に、「自分の目標への実現」へ突き進んだ記憶があります。
さてここで僕は、なるほど、と思ったのです。
なるほど、幼稚園は小学校へいくための、小学校は中学校にいくための、中学校は高校へいくための役割を担っているんだなぁ、と。
しかし、そこで違和感を感じたのです。
ならば、高校は、大学へいくための?或いは就職するための?
そうだったかなぁ、という疑問が生まれたわけです。
もちろんそうであるはずですが、僕は大学へいくための教育を受けた覚えが、無いとはいわないが、薄かった記憶がある。
もちろんこれは受験勉強のことをいっているわけではありません。
大学へ”入る”ための知識はイヤというほど教わったが、大学生に”なる”ための教養はあまり伝えてもらわなかったように感じます。
それくらいは自分で見つけろ、ということなのでしょうか。
僕は、学校が塾のようになってしまうのではないか、という危惧があります。特に進学校において、です。
目線をこんどは下へと移しましょう。
幼稚園にはいるための教養は何処で得るのでしょうか。
言うまでも無く、「家庭」であります。
ならば家庭でのしつけを怠った場合、それがその先ずっと響いてゆくことは、容易に理解できるでしょう。
僕は、モンスターペアレントといわれる人たちを挙げましたが、彼らが叫ぶ学校に対する要求は、「家庭」の段階で、彼ら自身が、子供に与えるべきものであることが多い。
学校としては、その段階はクリアしている前提であるわけです。
もちろんそう上手く、誰しもがタスクを処理してきていると考えるのは危険ではありますが。
さて、もう少しいうと、家庭での教養が十分でなかった子供も、いずれは成長し大人に、そして「親」になります。
その時、彼らのしつけはどういう風になるのでしょうか。
このことをある人(女性である)にぶつけてみたところ、その一因として、「女の台頭」を挙げました。彼女は、それを負にとっていたのです。
彼女は、女の台頭に伴い、社会で働く意思をもった女性が増えた。
そこまでは良いが、しかし、そのために、幼い子供を保育所に預ける女性が出始め、それが問題だと指摘したのです。
つまり、子供の一番かわいい時期を、他人に預けてしまうのは考えられない、残念なことだ、と。
僕が最初に挙げた、「家庭」での教育、その中にはもちろん「愛情」も含まれます。しかし、彼女が指摘するような状況下で、果たしてそれが十分に行われたといえるでしょうか。
しかし事実、女性が育児を放棄しないといけない状況を作り出したのは、今の政治ではないか、と彼女はつけくわえました。
つまりこれが、「卵とニワトリ」です。
「親」が悪いのか、「政治」が悪いのか、どちらが先なのか。
少し考えてみても面白い気がします。
なんだかんだいって政治の話にも絡んでしまいました笑
かなり色々な部分をそぎ落とし、言葉足らずの部分がありますが、言いたいことは大体言えました。
少し真面目な話でしたね、今回は。
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