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日々のニュースについて考えたことを色々と.  少し頭を使う必要があるかもです 

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すこし更新が、色々あって、間が空いてしまいました。

もう夏が終わりかけてます。
休みはもう少し続きますが、そろそろ大学に向けて準備をしないといけない頃です。

前回、「無限」「完成」の話を致しました。
常に”終わり”を見せずに進化を続ける形が「無限」であり、完成の姿だとしたわけです。

それに関連する話を、まぁ自分に関する話で申し訳ないのですが、しようかなと思います。

常に進んでいく姿に憧れる、ということだったわけですが、というよりも、「終わり」という形に対して強い”切なさ”を感じてしまうんですね。

物事の渦中にあるとき、夢中で過ごしますから、感情も感覚もすべてダイレクトに入ってきて、”あつい”状態にあるわけです。
ところが、物事を終えた後、未来からそれを振り返ってみたとき、えもいわれぬ感覚に囚われる。

その感覚の理由について、あえて分析はしないですが、、、


例えば連続ドラマが終わるとき、例えば祭りがおわった次の日、、、
まさに”興奮さめやらぬ”時に、同時に起こる切なさがありますね。

特に、自分がその物事の中心から、適度に離れている場合に強い感情を覚えます。
だから、まさに中心でその物事を経験したときは、それほどでもないんですよ。
例えば、祭りの場合だと、もし自分が実行委員かなんかで、祭り自体を動かす立場にあったならば、そこまで強い”切なさ”は覚えないんですよね。懐かしい感じはあるでしょうが、、、

客観的に物事の終焉を見たとき、あるいはもうすぐでそうなりそうなとき、確かに、消え行くものが醸す特有の「美しさ」も感じられますけど、「終わるのか、、、」という思いが急速にわきあがるんですよね。


というわけで、自分についてだけは終わりを見たくないなぁと思うのです。
現在の自分について客観視するのは大切なことだと思うんですけど、人生の「終わり」も含めた全体を、あるストーリーとして客観視するのは止めておこうと感じるわけです。

「終わり」自体を作らないっていうことですよね。
「終わり」をしるのは、死ぬ間際。走馬灯をみながらゆっくり吟味したいと思います笑


追記)指摘があった部分について、少し分かりやすくしてみた感じです。

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