日々のニュースについて考えたことを色々と. 少し頭を使う必要があるかもです
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昨日ぐらいに大学1セメの単位の成績発表がありまして、まぁまぁのものだったので一安心しております。
本当に、落としたか?っていうやつがありましたからね笑
いや、テストの出来が悪いとかそんなんじゃないんですよ、言っときますが。
ただ、すこし問題があった講義なわけですよ笑
まぁひやひやした、ということです笑
それともう一つ挙げれば、個々の講義の判定のゆくえは、カルトのレポートに委ねられていた、といっても過言ではありません。
ある部分では、怒りをあらわにした、批判ありきの文章を連ねていましたからねぇ笑
まぁ、認められたということでしょうか。
今回はそのレポートに書いた内容を少し(脚色を加えて笑)、紹介したいと思います。
テーマは、「大学生をカルトから守るために、大学はどうすればよいか」です。
レポート2枚程度、ということだったのですが、、、
2枚て、なめとんのか、と。
どんだけ理由説明を省かなあかんねん、と。
つまり大学側は、内容の濃さをはなから期待していないわけですよ。
ならば、と書き出しは次の通り
「カルトを論ずる前に、まず、宗教について論じないことにはお話にならない、、、」(多少の脚色あり笑)
というわけで、宗教についての話題を、総量の約半分にわたって書いてやった次第であります。
僕が思うに、日本は、宗教がからむと、とたんにダメになる国だと思う。
というのも、日本人は生まれてから死ぬまで、宗教からまるで避けて生きることが可能なのだ。
それもあってか、日本人は「宗教」というワードから逃げたがる。
「宗教」から逃げることは、「死」や「運命」、「人生」などについての深い考察から避けることも意味する。
考えてみれば、「oh my god!」に値する言葉が日本にあるだろうか。
腹が痛くて、「あああ!神様、すみません!!助けてください!!!」というのは違う。我々は仏教徒だ。神に救いをもとめて、どうする。
それから、クリスマスを祝う仏教徒が、他の国にいるだろうか?
言っておくが、クリスマスはキリスト教のイベントである。
例に見るとおり、日本人は宗教に関しての認識が、あまりにも薄い。
ゆえに、「免疫」も薄い。
まず「宗教」についての自分なりの定義を持っている人が、あまりにも少ない。
それゆえ、「宗教」と「カルト」を混同してしまう輩が後をたたない。
人は全員、「宗教」をやるべきだと思うのだ。
ここでの「宗教」とは、何も、”他人から教えを授かる”意味のものだけではない。
「俺が信じるのは、俺だけだ」
というのも、僕に言わせれば立派な「宗教」である。
つまり僕にとっての「宗教」とは、「”人生の指針”についての考察、および探求」である。
”人生の指針”が聖書であろうが仏典であろうが、「自分」であろうが関係ないのである。
ちなみに僕が一番理想だとおもうのは、3番目の「自分」である。
もし、自分では到底理解し難い境地を、他人の言葉によって説かれたとしたら、無理に理解する必要はない。
自分のレベルが低い、などと悲しむ必要はない。
なぜなら、人にとっての人生とは、その人にとって唯一無二のものであるから、当然”人生の指針”も唯一無二であるはずだからだ。
キリスト教の教えの一部分に感銘を受けることはあったとしても、すべてがあなたにとって至高の教えとは限らない。というより、そんなことはないはずである。
カルトの問題とは、ある宗教の教えをそっくりそのまま信じ込み、「自分」を捨ててしまうことである。
原因の大部分は教祖側にあるのではなく、我々サイドにある。
「宗教」について自分なりの確固たる定義がありさえすれば、カルト集団に知らぬうちに引き込まれたとしても”違和感”と”嫌悪感”を感じることが出来るし、それらを感じればすぐに行動に移すことができるはずである。
ところが日本人は、前に言ったように「宗教」に対する免疫が、ないに等しい。
よって、或るものは異常なまでに(それこそ宗教のように)忌み嫌い、或るものは指導者に身も心も捧げてしまうのである。
「宗教」と”上手く”つきあえる人が一体いくらほどいるんだろうか、と、ネット上での宗教がらみの問題をみるたびに首を傾げるのである、、、
っとまぁこんな趣旨のことを書いたわけであります。
この後、結論として、大学のみで解決できる問題ではない、と書いた記憶があります。
最近も選挙がありまして、宗教がらみの問題が論じられていますけれど、まぁ日本はこの話題になるとてんで弱い気がしますね笑
本当に、落としたか?っていうやつがありましたからね笑
いや、テストの出来が悪いとかそんなんじゃないんですよ、言っときますが。
ただ、すこし問題があった講義なわけですよ笑
まぁひやひやした、ということです笑
それともう一つ挙げれば、個々の講義の判定のゆくえは、カルトのレポートに委ねられていた、といっても過言ではありません。
ある部分では、怒りをあらわにした、批判ありきの文章を連ねていましたからねぇ笑
まぁ、認められたということでしょうか。
今回はそのレポートに書いた内容を少し(脚色を加えて笑)、紹介したいと思います。
テーマは、「大学生をカルトから守るために、大学はどうすればよいか」です。
レポート2枚程度、ということだったのですが、、、
2枚て、なめとんのか、と。
どんだけ理由説明を省かなあかんねん、と。
つまり大学側は、内容の濃さをはなから期待していないわけですよ。
ならば、と書き出しは次の通り
「カルトを論ずる前に、まず、宗教について論じないことにはお話にならない、、、」(多少の脚色あり笑)
というわけで、宗教についての話題を、総量の約半分にわたって書いてやった次第であります。
僕が思うに、日本は、宗教がからむと、とたんにダメになる国だと思う。
というのも、日本人は生まれてから死ぬまで、宗教からまるで避けて生きることが可能なのだ。
それもあってか、日本人は「宗教」というワードから逃げたがる。
「宗教」から逃げることは、「死」や「運命」、「人生」などについての深い考察から避けることも意味する。
考えてみれば、「oh my god!」に値する言葉が日本にあるだろうか。
腹が痛くて、「あああ!神様、すみません!!助けてください!!!」というのは違う。我々は仏教徒だ。神に救いをもとめて、どうする。
それから、クリスマスを祝う仏教徒が、他の国にいるだろうか?
言っておくが、クリスマスはキリスト教のイベントである。
例に見るとおり、日本人は宗教に関しての認識が、あまりにも薄い。
ゆえに、「免疫」も薄い。
まず「宗教」についての自分なりの定義を持っている人が、あまりにも少ない。
それゆえ、「宗教」と「カルト」を混同してしまう輩が後をたたない。
人は全員、「宗教」をやるべきだと思うのだ。
ここでの「宗教」とは、何も、”他人から教えを授かる”意味のものだけではない。
「俺が信じるのは、俺だけだ」
というのも、僕に言わせれば立派な「宗教」である。
つまり僕にとっての「宗教」とは、「”人生の指針”についての考察、および探求」である。
”人生の指針”が聖書であろうが仏典であろうが、「自分」であろうが関係ないのである。
ちなみに僕が一番理想だとおもうのは、3番目の「自分」である。
もし、自分では到底理解し難い境地を、他人の言葉によって説かれたとしたら、無理に理解する必要はない。
自分のレベルが低い、などと悲しむ必要はない。
なぜなら、人にとっての人生とは、その人にとって唯一無二のものであるから、当然”人生の指針”も唯一無二であるはずだからだ。
キリスト教の教えの一部分に感銘を受けることはあったとしても、すべてがあなたにとって至高の教えとは限らない。というより、そんなことはないはずである。
カルトの問題とは、ある宗教の教えをそっくりそのまま信じ込み、「自分」を捨ててしまうことである。
原因の大部分は教祖側にあるのではなく、我々サイドにある。
「宗教」について自分なりの確固たる定義がありさえすれば、カルト集団に知らぬうちに引き込まれたとしても”違和感”と”嫌悪感”を感じることが出来るし、それらを感じればすぐに行動に移すことができるはずである。
ところが日本人は、前に言ったように「宗教」に対する免疫が、ないに等しい。
よって、或るものは異常なまでに(それこそ宗教のように)忌み嫌い、或るものは指導者に身も心も捧げてしまうのである。
「宗教」と”上手く”つきあえる人が一体いくらほどいるんだろうか、と、ネット上での宗教がらみの問題をみるたびに首を傾げるのである、、、
っとまぁこんな趣旨のことを書いたわけであります。
この後、結論として、大学のみで解決できる問題ではない、と書いた記憶があります。
最近も選挙がありまして、宗教がらみの問題が論じられていますけれど、まぁ日本はこの話題になるとてんで弱い気がしますね笑
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