日々のニュースについて考えたことを色々と. 少し頭を使う必要があるかもです
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久しぶりの休み、っという感じがしますね。
なにしろ先週は忙しくて、ブログどこではなかったわけですし。
その反動か、何をするでもなく、ごろごろとしているのが、この上ない贅沢なのであります笑
これに加えて、スムースジャズと、冷えた紅茶なんかがあるということがない。
さて、今、とっても観たい映画がありまして、それは何かというと、
「最高の人生の見つけ方(原:the bucket list )」(米2007)
で、あります。
見た人もいるかと思いますが、主演は、ジャックニコルソンとモーガンフリーマン、でありまして、彼らが扮する老人二人が、ガンによる余命六ヶ月を言い渡されたのち、やりたいことを存分にやる、という内容であります。
なんでこれが観たいかというと、簡単で、僕も死ぬまでに行きたい所が山ほど”list”出来るわけなんですよ。
いつか金を貯めて、一つづつ制覇するつもりでいます。
彼らは、余命六ヶ月で或ることを知ってから、行動を起こしたわけですが、余命六ヶ月なら皆さんは何をしますかね。
もちろん病気の状態もあるでしょうが、どうでしょうか。
とりあえず落ち込んで、立ち直るまでに時間がかかりますか、そもそも簡単に立ち直れるのでしょうか。
人は本当に”死”が怖いんでしょうね、出来るだけ避けようとします。普段はそれを考えようとしないんですね。
そして急に、ある時、”死”が現実味を帯びて、無視できない状態になった時、パニックになる人がいる。
人は、”普通に”生きているとき、永遠に生きるつもりで生きている気がしますね。いや、これは反対意見もあるでしょうが、”永遠”とはいかずとも、”遠い将来”までを想定するのではないでしょうか。
もちろん、これは日本などの、比較的豊かな国における状況に過ぎないのですが、未来をそれなりに重視するわけです。
以前、何かで読んだのですが、砂漠という広大な場所で生きる人たちは、「時間」という観念が、「空間」という観念に呑み込まれてしまっている、という話があるんです。
つまり、彼らにとって「未来」というものは、ほとんど意識されていない。ただ今置く空間に任せて、生きている。
彼らは友人と会うとき、「いついつ、、、」といった約束をしない。
ただ、「その時が来たならば、会いましょう」、と。
彼らと僕達とは、住む世界が違うわけです。
同じような時間観念の違いが、実は、畑や田んぼをやっている、農家の方々にもいえるのです。
つまり、彼らが生きるのは「回帰する時間」ということです。
彼らは、農作物の収穫のサイクルにあわせて生きていますから、基本的に一年単位でぐるぐる回る時間を生きている。未来も過去もなくて、僕らがいう「去年の夏」も「今年の夏」も、彼らにとっては同じ「夏」でしかない、というのです。
にわかは信じられませんが、しかし、自然に身をおくと、それが実感できるときがありますね。
最初のほうの記事に同じようなことを書いた覚えがあります。
彼らにとって、”死”とはどのような存在なのでしょうか。彼らの過ごす「余命六ヶ月」はどんなものでしょうか。
「その時がくれば、死ぬのだ」と、僕はそういう有り方に、すごく共感が持てる。
人はいつ死ぬか、分からないが、死も人生の一部として自然に受け入れることが出来たならば、きっとその人の一生は、(その人にとって)充実したものになると思います。
死を見ないんじゃなくて、受け入れる。
「明日死んでも、今日までの人生が十分最高だった」と、そういえるためには、常に「今」を一生懸命生き抜く必要があるのではないでしょうか。
そう考えてみると、「過去」や「現在」、に比べて「未来」というのは、すごくあやふやな概念であることに気づきますね。
なにしろ先週は忙しくて、ブログどこではなかったわけですし。
その反動か、何をするでもなく、ごろごろとしているのが、この上ない贅沢なのであります笑
これに加えて、スムースジャズと、冷えた紅茶なんかがあるということがない。
さて、今、とっても観たい映画がありまして、それは何かというと、
「最高の人生の見つけ方(原:the bucket list )」(米2007)
で、あります。
見た人もいるかと思いますが、主演は、ジャックニコルソンとモーガンフリーマン、でありまして、彼らが扮する老人二人が、ガンによる余命六ヶ月を言い渡されたのち、やりたいことを存分にやる、という内容であります。
なんでこれが観たいかというと、簡単で、僕も死ぬまでに行きたい所が山ほど”list”出来るわけなんですよ。
いつか金を貯めて、一つづつ制覇するつもりでいます。
彼らは、余命六ヶ月で或ることを知ってから、行動を起こしたわけですが、余命六ヶ月なら皆さんは何をしますかね。
もちろん病気の状態もあるでしょうが、どうでしょうか。
とりあえず落ち込んで、立ち直るまでに時間がかかりますか、そもそも簡単に立ち直れるのでしょうか。
人は本当に”死”が怖いんでしょうね、出来るだけ避けようとします。普段はそれを考えようとしないんですね。
そして急に、ある時、”死”が現実味を帯びて、無視できない状態になった時、パニックになる人がいる。
人は、”普通に”生きているとき、永遠に生きるつもりで生きている気がしますね。いや、これは反対意見もあるでしょうが、”永遠”とはいかずとも、”遠い将来”までを想定するのではないでしょうか。
もちろん、これは日本などの、比較的豊かな国における状況に過ぎないのですが、未来をそれなりに重視するわけです。
以前、何かで読んだのですが、砂漠という広大な場所で生きる人たちは、「時間」という観念が、「空間」という観念に呑み込まれてしまっている、という話があるんです。
つまり、彼らにとって「未来」というものは、ほとんど意識されていない。ただ今置く空間に任せて、生きている。
彼らは友人と会うとき、「いついつ、、、」といった約束をしない。
ただ、「その時が来たならば、会いましょう」、と。
彼らと僕達とは、住む世界が違うわけです。
同じような時間観念の違いが、実は、畑や田んぼをやっている、農家の方々にもいえるのです。
つまり、彼らが生きるのは「回帰する時間」ということです。
彼らは、農作物の収穫のサイクルにあわせて生きていますから、基本的に一年単位でぐるぐる回る時間を生きている。未来も過去もなくて、僕らがいう「去年の夏」も「今年の夏」も、彼らにとっては同じ「夏」でしかない、というのです。
にわかは信じられませんが、しかし、自然に身をおくと、それが実感できるときがありますね。
最初のほうの記事に同じようなことを書いた覚えがあります。
彼らにとって、”死”とはどのような存在なのでしょうか。彼らの過ごす「余命六ヶ月」はどんなものでしょうか。
「その時がくれば、死ぬのだ」と、僕はそういう有り方に、すごく共感が持てる。
人はいつ死ぬか、分からないが、死も人生の一部として自然に受け入れることが出来たならば、きっとその人の一生は、(その人にとって)充実したものになると思います。
死を見ないんじゃなくて、受け入れる。
「明日死んでも、今日までの人生が十分最高だった」と、そういえるためには、常に「今」を一生懸命生き抜く必要があるのではないでしょうか。
そう考えてみると、「過去」や「現在」、に比べて「未来」というのは、すごくあやふやな概念であることに気づきますね。
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